昭和43年2月3日 朝の御理解   (末永信太郎)    №0-19



 信心をさせて頂いて、本当に救われたい、本当に助かりたい、と。まあ、救われた人の姿というか、助かって行きよるということは、どういうようなことを言うのだろうか。救われておる、助かっておるということは、どういうことを助かったと言うのであろうか。
 最近、合楽の駐在所の奥さんが、毎日お参りなさる。ご主人が(  )病気で、もう、ずいぶん長く病院に入院しておられたのです。ほれで、熊本の教会の満野という先生の紹介で、ここに参って来ております。信心は大して、まあ、分かっていない。分かってないと言うよりは、その、叔母さんが、その熱心な総代か何かをしておられる。あちらへ行ったら、合楽という教会が(   )建っておるそうだから、あちらでお参りせれ、お参りせれと、こう言われてあった。
 ほれで、その満野先生の紹介もあって、お参りをしたのが初めてでした、毎日お参りをしてみえる。昨日、お参りをしてみえてから、お届けされるんです。先生、あの、子供が今、明善校に行っております。その子供が、「お母さん、僕も金光様にお参りしようか」て、こう言う。急にそんなことを言い出しますから、どうした、その、まあ、心境の変化かねと言うて、その、ところが、あの、「お母さん、この頃ぜんぜん悔やまんごとなったね」とこう。
 言われてみてから、本当に私は毎日、そのおかげで、これがおかげと言うとばいなと、今日は改めて気が付いたと言うて、今日、お届けしております。ね。親一人子一人でその派出所を守っておられる訳なんです。お父さんが病院に入院(行っちょります?)。ね。で、それまでは、ずいぶん(二人だけのこともあった?)、まあ、不安なことをです、または、おられないことを何かと、本当に「困った、困った」という、いつも悔やんでおられたお母さんであったに違いない、子供が気が付くから。
 「この頃、お母さんは一つも悔やまんようになったのが、金光様へ毎日お参りをしておるからだ」ということに、まあ、子供がこういう事を言うわけなんです。ね。どうでしょうか皆さん、信心させて頂いて、自分でも気が付かない間に、こうやって行きよるですね。毎日、こうやってお参り、何も分かりませんち。分かりませんけれども、毎日、あのテープで御理解を頂かせてもらうのが楽しみでお参りをしております。
 地味な奥さんですから、毎日、色んなお届けなさらんのですけれども、昨日はそういうお届けをされます。ちょうど、あの、二度目のお参りを合楽の中村さんが来ておる時でございましたから、なら、あの、息子さんは、もう家の息子はここの学生会で熱心におかげを頂きよりますから、(      )息子さんもどうでもこうでも、お参りされなさいませと言うてから、まあ、合楽一家に参って下さいと言うて、色々お話をしておりました。
 ようにですね、そういうおかげが繋がって行くということもそうですけれども、毎日お参りをさせて頂いておる内に、(   )はなしに何とはなしに救われて行きよる。不平を、不足を、愚痴をこぼさんで済むようになって行きよる。それが私は、救われて行く者の、だんだん、本当の助かりがあって行くための姿であると、こう思う。ね。初めの間は、もう、主人が早く、一日でも早く退院しますように。病気と病気だけに、どうぞ、早く良くなりますようにという願いの元にお参りして来よったが、最近は毎日お参りさせて頂くのが楽しみになって来た。ね。
 それも、御理解を頂いて帰ることが楽しみになって来た。ところが、自分にも気が付かんでおる間にです、愚痴を言わんで済む、不足を言わんで済む、それが子供にも分かって来るほどにおかげを頂いておるということが、はあ、これが金光様のおかげじゃろうと、こう、気が付きましたと、こう言うのである。
 信心辛抱と、こう。いよいよ明日は寒の明けと同時に、寒修行を終わるわけでございます。だんだん日にちを負うにしたがって、寒修行に参加する方もだんだん増えて参ります。ほれは有り難いことだと、こう思います。その寒修行にお互いが修行させて頂いた、その寒修行の体験を生かして、これからの信心生活にです、いよいよ救われて行くことのために、いよいよ、助からせて頂くために、多いに朝参りの修行がどんなに有り難い、尊いもんじゃあるかということを、一つ、まあ、分かられたことであろうと思うが、そのことを生かして行かなければならないと思う。
 今朝から、(   )ここではいつも、辛抱ということを申しますね。久留米の初代の、「なあ、石橋さん。信心辛抱さえをしておれば、ものごと整わんことないぞ」と石橋先生に、二代金光様四神様は教えておられます。「信心はこれだ」、と石橋先生はそれを信心の、自分の懸け守りのようにして、もう、御取次をなさる、まあ、人ごとに、その信心辛抱を説かれた。ね。
 三代金光様は、神信心には辛抱することが一番大切でございます、と。一番大切だと、こう。辛抱さえをしておれば、ものごと整わんことないというのは、どういうような意味を持っておるものであろうか。助からんことはない、救われんことはないというのは、どういう内容を持っておるものであろうか。神信心には辛抱が一番大切でございますと仰るのは、なぜ、それがこんなに大切なものか。ね。
 初めの間は、辛抱ということは、やっぱり、ね、本当に辛抱の出けないようなところを辛抱するのが辛抱なのですからね。堪忍というのも、ね、もう、堪忍、出来る堪忍なら誰でもするのだ、と。ね。出来ぬ堪忍をするのが、真の堪忍だと言われておるように、辛抱も同じこと。出来る辛抱なら、誰でもするじゃないか。それは出けないところをです、出けないところを神にすがって辛抱すればいい。
 小倉の初代と言やあ、もう大変な厳しい方であった。奥さんに対してでも、実に厳しかった。もう、それがもう、見てたまらない。もう、とても持てんという訳。何回か四神様のお口で、いわば、(お腹踊り?)でございます。ね。御本部の山を一つ越えた向こうに(さみ)という猟師村があるそうです。そこから、毎日毎日、もう、それこそ娘時代から、ありとあらゆる病気を持っておられた方だったんですね。
 それで、当時、四神様でお在りになった二代金光様の元へ毎日毎日お参りになる。ね。そして、体もだんだん健康になられて。もう、その病気という風に、もうそりゃあ、もう本当にありとあらゆる病気であったらしいですね。それを、まあ、おかげを受けられて、四神様のお口添えで桂先生の奥様になられたわけです。向かえる時に、桂松平ていう男は、ね、またとない、その、氏子じゃ。ね。だから、大抵なその修行は、まあ、心得て行かなければ出来んぞというように、まあ、教えられたということですが。
 本当に、それを実際ちゅうようなところが、大変な先生だったわけですね。だから、その先生の修行に付いて良う行っきらんわけ。それで、あの、御本部へ帰られては、とても私では桂松平の妻としては、とても、私では適いませんと言うて、その、帰られた。
 何遍かの(お届けでしょう?)。「おみちさん、そんなに辛いか」。「もう、辛いの何のじゃございません。他の辛抱ならどげな辛抱もしますけれども、これだけは辛抱が出来ません」ということを、その、これだけはという、そのことの内容をお届けしてから、もう、これだけは辛抱が出けんと仰った。
 「さあ、その辛抱の出来ぬところを神にすがって辛抱するのぞ」ち。松平が表から追い出したら裏から出て、裏から追い出したら表から入って来い」と仰ったそうですね。ね。それこそ、泣く泣く帰られては、辛抱し抜かれたわけですね。ですから、その、とにかく出来る辛抱なら誰でもする。出来ん辛抱のところをです、ね、辛抱するのじゃなくて、神にすがって辛抱して行くというところに、信心辛抱の値打ちがあるのですよ。もう出来ませんところをです、ね、辛抱し抜いて行く。ね。
 そこにはね、どういう結果が生まれて来るかと言うとですね、今日はまた、大変意味の違うようなことですけれども、ここを頂くんです。御理解95節、世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならんぞ、と。これは95節ですね。世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まん、神を商法にしてはならぬぞ。
 お供えをたくさん持って来ると、その人のことを一生懸命拝んでやるという信心じゃないぞ。これは、まあ、取次者に対する御教えのようにありますけども、まあ、そうでばかりはない。ね。神を商法にしてはならん。私は金光様の信心しよりますち言うて相手を信用させといてからですね、商売する人があるんです。 これなんか、神様を信用、私どもは過去において、やっぱそういう感じがしますですね。いつも、ここに赤い服紗に御神米をここに入れて、こっちから宣伝はしませんけれどもですね、それは何ですかち聞かれたら、これは金光様。私は金光様を信心するけん、私はもう、人からそげな、まあ、言うならです、騙したり、その、誤魔化したりはせんと言わんばかりの、その、これは神のその、いわば商法に使うておるような感じですね。はあ、信心しよりますけんで、もう、そげな曲がったことはしません。ね。
 そういうような事にもなりましょう。同時に、ね、例えば私はここへ座らせて頂いておるということがです、昨日もある方が見えてですね、どこどこ教会にお参り、もう、いつお参りしたっちゃ、あげな大きな教会がいつも伽藍堂のごとしてから、御結界に先生も何も座ってござらんち。お賽銭ばタランちあぐると、裏から出て来なさる。まるきり、呼び鈴(ざわ?)のごたる。
 ここへ来ると、もう、いつも先生が座っておられるから、ね、もう、あそこ障子開けた途端におかげを頂くと言うて、まあ、お世辞で使うたか知らんけど、そんな風なことを言われた方があったんですけれどもね。ね。例えば、信者の為に、信者さんがお参りをして来るために、ね、ここへ座っておるというのでは、やはり、これは神を商法にしておるようなものですね。商売に座っておるようなもの。
 けれども、ここのどこまでも、いつ、神様からどういう御用が仰せ付けられるやら分からん。いわゆる、神様の御用に、ここに奉仕専念をさせてもらう。いや、こうして座らせて頂いとかなければおられないのである。これは、お参りがあろうがなかろうが、ね、ここになって来る時に、いわば食べるためにここに座るのじゃない、商売のために、ここに座るのじゃないということになるのです。ね。
 ですから、なら、これを皆さんの方の側へこの御理解95節を頂くとどういうことになるかと言うと、ね、おかげをもらうからお参りをする。おかげば頂かんなんから、こげんしてから朝早うから参りよる、と。これは、言うならば、商法のようなものですね。けれども、お参りをさせて頂くことが楽しい。御理解を頂くことが有り難い。自分がいつの間にか、不平不足を言わんで済む自分になっておることが、はあ、これがおかげであろうか、と。
 初めの間は、主人の病気を、主人の病気をと思って参りよったけれども、最近はお参りをすることが楽しゅうなって、お話を頂いて帰るのが有り難い。そこには、自分も気が付かないのに、自分の救われて行っておる姿というものがです、子供から言われるくらいに、この頃、お母さんはいっちょん不足を言わんね、愚痴を言わんねというようなお母さんになれておれたということ。ね。
 そういう、私はお参りであって、本当のおかげである。そこが辛抱されて行きよる、毎日。そこが、どういう事になっておりますかね。寒いのに辛いのに、ジーッと辛抱しておるというだけじゃないことになって参ります。それこそ、梅花ではないですけれども、ね、(にくほく?)とした香りが、その中から発散させて頂いておるということなんです。ね。
 辛いのに寒いのにシーッと、初めの間はそうであった。初めの間は泣く泣くであった。出来んところは神にすがって辛抱させて頂いておるのであったけれども、辛抱させて頂いておる内に、自分の心の中に、ね、梅の花が(いくほく?)とした香りを周囲に放つように。お母さんは、この頃不足を言わんねというようなおかげがです、いつの間にか身について来たというような信心であり、辛抱でなからなければならない。辛抱の内容というのは、そういうものなんだ。
 はあ、なるほど、信心辛抱さえをしておればと仰るのは、この、ここなんだ。信心辛抱しておる内に、そこを分からせて下さろうとする。また、分からなければならない。神信心には辛抱することが一番大切と仰る。なるほど、辛抱することが一番大切と仰る、一番大切と仰る。
 なぜ、一番大切なのか。辛抱しておる内に、その辛抱しておることそのことが、有り難うならせて頂けるから、ね、そこに(四季?好き?)のおかげの頂けれる受け物が出来て行くのでございます。ね。ああ、もう、一生懸命参ったばってん、おかげ頂かじゃった。そのおかげが目指しではないということ。初めはそうであっても、いつの間にか、じゃあ、信心が焦点になっており、気がつかない間に、ただ、お参りすることが楽しゅうなっており、御理解頂くことが有り難うなって来ておるということ。
 それに、御理解が耳に入らん、お参りすることは術無い。ばってん、辛抱しておるというな辛抱なら、何十年経ったって、この辛抱ならほんな辛抱じゃない。いわゆる、神、ね、信心辛抱でなかにゃいけんということになる。ただ辛抱じゃいかん、歯を食い縛ったから辛抱だけじゃいかん。ね。
 そこを通って、私は有り難いという内容。ね。梅の花がそれこそ、この寒いのに冷たいのにです、(にくふく)とした香りを周囲に放つように、信心辛抱梅の花とこう言われる。梅の花の値打ちというのは、ね、咲く前から、その香りを放つようなところに、梅の花の値打ちが私はあるように。信心も、そこのところが値打ちであると、私は思うのです。
 いよいよ明日が、まあ、言うなら満願。今ここで、若先生を先頭にですね、4~5人の方が毎晩、夜の御祈念を終わらせて頂きますと、草野の(にゅうとう?)という所の上に、そこの山の(   )に大きなお滝場がございます。あそこへ毎晩毎晩、お滝を頂きに行っております。ほれは、あそこが私の、まあ、昔の修行させて頂いたところですから、ここで修行する方達が、毎年あそこに参ります。
 今年もやっぱり、そうして参っておりますがです、それは、とても大変なことなんです。もう、帰って来よると、(氷がシャープに?)凍ってしまいますから。去年は桜井先生があちらで修行中に、もう、それこそゾッとするような大変な、ここの修行しとります。ね。
 ですから、そういう、例えば激しい修行もです、ね。もう、あん時の修行を思うたら、このくらいな修行は問題じゃないというおかげを受けられるから値打ちがあるのです。私、滝に打たれるということは大した値打ちはないと思う。皆さんでもそうです。あれを寒いのに、あの眠いのに、ね、一月間、寒修行に参加させて頂いた。ね。あん時のことを思やあ、いつ、どういう時があっても、あん時の信心させてもらいよるというような、私は、その体験をですね、身につけて行けるということが有り難いのですよ。ね。
 どうぞ、明日は、この頃月次祭にも申しましたように、御祈念を出来るだけ、まあ、お話の方はですね、(     )いけんから、まあ、簡単にして。皆さんの寒修行に体験された、感じられたことでも発表して頂く場に、あちらで開設の準備が出来ますでしょうから。そういうようなことを、私は思うておりますが、どうぞ、そういう風なことになりますように、皆さん、どうぞ明日は、自分がもし発表するなら、ね、一月の間にこういう体験を受けた。発表してもしなくても、一つ心で、一月間の寒修行のことを、一つまとめてみて御覧なさい。と、尊いもの、有り難いものがそれぞれに体験頂かれておられることであろうと、私は思います。ね。どうぞ、修行の値打ちというものをですね、いよいよ体験される。特に今日は、信心辛抱ということについての内容のことについて申しましたですね。どうぞ。